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締結背景 |
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北朝鮮軍の不法南侵で洛東江まで後退した韓国軍は1950年9月28日UN軍の仁川上陸作戦の成功でソウルを奪還、北進して1950年10月20日平壤を占領、統一が実現されそうになった。しかし1950年11月17日の中共軍の参戦で戦勢はまた逆戦されてUN軍は後退、又大反撃で1951年3月4日にソウルを再奪還して、3月24日に38度線まで進撃した。
1951年3月12日米軍第8軍司令官リッジウェイ-は“38度線で休戦ラインになるとUN軍側の大勝利”だといったこともあるほど、米国の政府も38度線より北側に進撃することを留保しながら休戦を取り上げて論じた。
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1951年6月16日UN事務総長が韓国戦の休戦を定式提案して、6月27日にはソ連の外務省のグロミコが休戦関連声明を発表した。
休戦会談が開く場所を巡って意見が食い違った。UN側は連絡官接触を元山港にあるデンマクの病院船で、共産側は開城ですることを提案した。
両側は2、3回の相互放送の通じた提案で開城にある‘来奉荘’で予備会談をすることを合意、最初に接触した。予備会談で合議した通りに1951年7月10月初めての休戦会談を開催、7月20日からは板門店に会談場所を移転して、休戦について会談がつづくことになった。総765回の会談で1953年7月25日休戦協定が締結された。 |